身近なトピックを通して欧米ポップミュージックの醍醐味をわかりやすくガイドする音楽コラム「洋楽で知る世界のいま」。第2回は『フリースタイルダンジョン』や『ヒプノシスマイク』など、ラップバトルのブームによって広く一般にまで浸透した俗語「ディスる」にフォーカス。ヒップホップに由来する言葉の背景を関連楽曲と共に掘り下げる。
ラップバトルと「ディス」
2007年にバラエティ番組『リンカーン』で紹介されたことを機に広まり、2000年代後半にはインターネットスラングとして使われるにするようになった俗語「ディスる」。相手を貶す/侮辱する行為を指す言葉として、現在では日常的に耳にするようになりました。
この「ディスる」が近年一般にまで浸透した背景には、テレビ番組『フリースタイルダンジョン』(2015年~2020年)や音楽原作キャラクターラッププロジェクト『ヒプノシスマイク』(2017年~)などによるラップバトルのブームが少なからぬ影響を及ぼしていますが、まさに「ディスる」はヒップホップ/ラップ発祥のスラング 「diss」(無礼、軽蔑などを意味する「disrespct」の略)に由来しています。
敵対するストリートギャング同士が暴力に頼らずに勝ち負けを決める手段として発達し、もともと互いの技術を競い合うコンペティション的要素の強いヒップホップでは、1970年代の黎明期よりストリートやクラブなどでラッパーたちが熾烈なバトルを繰り広げてきましたが、そんな「ディス合戦」を題材にして世界的に大ヒットを記録したのがエミネム自ら主演を務める彼の半自伝的映画『8 Mile』(2002年)です。ここ日本においてラップバトルの存在と醍醐味が広く知られるようになったのは、この映画が登場して以降のこと。当時すでに日本でもラップバトルの大会は開催されていましたが、『8 Mile』の公開をきっかけにエントリーが急増したとの逸話もあります。
『8 Mile』はラップバトルに挑む者にのしかかる途轍もない重圧を見事に映像化していますが、この映画を観ているとバトルに勝利するにはただ闇雲に相手をディスするのではなく、瞬時に状況を把握して的確に相手の弱点を突く高度な判断力と即興力が不可欠であることがよくわかります。主役のラビットを演じるエミネムは実際にラップバトルで名を上げて大手レコード会社との契約を勝ち取った経緯がありますが、バトルに強いこと、つまりディスがうまいことは、良いラッパーの必須条件といえるでしょう。
ヒップホップ作品で聴く「ディス」
こうした『8 Mile』のようなラップバトルとは別に、ヒップホップでは作品上でディスが行われることも日常茶飯事です。代表的な例としては、ギャングスタラップのパイオニア、N.W.Aの中心メンバーだったアイス・キューブがグループ脱退後にかつての同僚を徹底的にディスした「No Vaseline」(1991年)。1990年代中盤にニューヨーク対ロサンゼルスのヒップホップ抗争が勃発した際、いまは亡き2パックがニューヨークのラッパーたちを実名を挙げてディスりまくった「Hit ‘Em Up」(1996年)。この2曲は、ヒップホップの歴史でも屈指の名ディスソングとして現代まで語り継がれています。なお、前者はN.W.Aの伝記映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』(2015年)、後者は2パックの生涯を綴った映画『オール・アイズ・オン・ミー』(2017年)、それぞれの劇中で大きく取り上げられているので興味のある方はぜひご覧になってみてください。
誰それ構わず噛みついていく、ディスを売り物にするラッパーもいます。その代表格は、本人主演の半自伝的映画『ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライイン』(2005年)で知られる50セント。彼は合計49人ものラッパー/シンガー/セレブリティを挑発する「How to Rob」(1999年) でデビュー後、著名なラッパーに次々とバトルを吹っ掛けてはそれを推進力として活動を展開していきました。50セントを発掘したエミネムは彼を「何に対してもビビらない男」と紹介していましたが、このように炎上商法的にディスソングを利用するラッパーも少なくありません。
チャート1位に輝いた歴史的ディスソング
ヒップホップの50年に及ぶ歴史のなかでは、JAY-ZとNASのようなシーンの頂点に君臨する実力派ラッパーによる激しいディスの応酬が交わされたケースもありますが、それをも凌ぐ「事件」として昨年大きな話題を集めたのがピューリッツァー賞受賞経験のあるケンドリック・ラマーと数々のセールス記録を保持するドレイクとの現行ヒップホップを代表する二大ラッパーによるバトルです。このふたりは、2024年3月から5月にかけてそれぞれ5曲ずつのディスソングを発表。世界中が両者の一挙手一投足に注目するなか、ケンドリックが5月4日にリリースした「Not Like Us」によって事実上の決着がつきました。
「Not Like Us」はリリース直後から次々とストリーミング再生回数記録を塗り替えて全米チャートで1位を獲得すると、第67回グラミー賞で最優秀レコード賞や最優秀楽曲賞など主要2部門を含む5部門を受賞。ケンドリックが出演したアメリカの国民的行事、第59回スーパーボウルのハーフタイムショーでもスタジアムを埋め尽くした観衆の大合唱を誘発しました。これまで、ディスソングは基本的にヒップホップコミュニティ内で享受されてきましたが、いまをときめく人気アーティスト同士の確執から生まれ、分断や反抗を示唆するメッセージをも内包した「Not Like Us」は、単なる「罵り合い」を超えた普遍性を持つことになったのです。
ある特定の人物を貶すことを目的として作られた楽曲がチャートの1位に輝き、権威ある音楽賞の受賞にまで至ったことは、ここ日本ではなかなか理解しにくいところもあるかもしれませんが、そもそもラップという表現が相手の親を中傷してその技巧を競い合う黒人社会の伝統的な言葉遊び「ダーティダズン」をルーツとしていることを踏まえると、また受け止め方も変わってくるのではないでしょうか。冒頭で触れたヒップホップの成り立ちも含め、「ディス」は暴力を回避するために編み出されたストリートの知恵でもあるのです。